地球社会における新文明への耕作活動へ

日本の国際貢献 Japan's international contribution

【Ⅲ】「北と南」から「分かち合い社会」の構築並びに経済的な適応措置

1.中央ユーラシヤ合衆国や国家共同体という「分かち合い社会」構築モデル

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日本の第二次大戦後の急速且つ高度な発展は、世界にいわゆる新興国の“奇跡”を示すこととなりました。がこれは当時、行われたヤルタ会談による極性を異にする二大勢力の国際的な勢力均衡が発端であったかも知れません。敗戦によって打ち拉がれた国民の多くは、明治時代から強化された皇国史観の圧力からも解放され、二大勢力による狭間の中に自らの位置つけを定め、総力を挙げて経済的に追いつけ追い越せという時代を生きたのであります。

そのようなとき1948年には、江上波夫博士による騎馬民族王朝説が展開されます。江上氏は騎馬遊牧民に代表されるような複合的な国家を形成するものを騎馬民族とよび、世界の主要民族を騎馬民族的なものとそうでないものとにわけ、定住農耕地帯での国家形成は少数の騎馬民族が支配者として侵入することによってはじまると説いたのであります。その例として日本の古墳時代の大和政権成立(*8日本における騎馬民族王朝説)をとりあげ、それはアラル海北方の中央ユーラシヤ大陸のステップランドから東北アジア系の騎馬軍団が征服者として渡来してうちたてられたとする説を提唱したのですが、その後これをめぐって賛否多くの意見が提出されています。その後、「(*11)江上波夫の日本古代史」において大和朝廷の成立と日本列島の統一が騎馬民族によるものであることを立証したと述べられています。

一方では、中国西部のタリム盆地における墳墓やミイラ(*9)の考古学的研究が進んでおり、スコットランドで用いられてきた色糸を使った大柄の格子模様のタータン・チェック柄(ケルト語ではブリーカンといい,チェックを指していた)が、タリム盆地の紀元前2000年頃のミイラから発見されるなどその風俗や放射性炭素あるいはDNA分析など諸方面からの検討によって、我々現代人種の移動のさまざまな経路やこれらの説の是非が今後も論議されてゆくものと思われます。そしてユーラシヤの西端におけるケルト族との関係も徐々に解明されるものと思われます。

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