国際的な社会的ジレンマを超えて
1.有限が見える地球社会
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我々の身辺にも地球がもっている物的な有限感がひたひたと感じられるようになってきました。石油や化石燃料の消費と、ロシヤの産油状況による所得の伸びや、中国の激しい需要増が経済や軍事関係の覇権を賭けたように見える様々な見通し、インドや中国の人口増に対する食料や水、空気の汚染、炭酸ガスによる気温の上昇や水位の上昇など、あと十数年の予測の中でさえも心配の種は尽きません。 代替え燃料の研究も様々な試みがなされて、その有効性も徐々に見えてきましたが、相変わらず問題の残る核分裂以外に実用可能な新エネルギーの現実的な見通しが付いていないという報告を聞く方が多いように思います。
私のささやかな自然科学分野の研究生活においても、先に述べたインテリジェント・デザイン説には実感があり、偉大な殆どの発明や発見には天啓といってよい小さく絞り込まれた大きな啓示に頼っているのがほとんどの実態だと確信することができます。 しかしこの天啓には人知の及ぶありとあらゆる努力を傾注し、死力を尽くしたあとに啓示されるものであり、特定のものたちのための啓示ではなく、かつ「公の父性」によって認知される場合にのみ、秘やかに彼自身にも気付かれないまま啓示されるという特性を持っているように思います。
ここ数十年に見られる物的欲望の刺激を多用して競合する心を重視する市場主義的経済活動を産み出してきた価値観が、啓示の背景として不適切なことを重視すれば、人類史上、意識段階の上昇に重要なこの時期に、これを基幹的に解決する科学的発見が見られないこと自体に人類社会的そのものが、大きな課題をもっていると推察するのがむしろ自然な感じであります。
各国のもつ学級活動の課題など教育上の問題にも、親子関係の不適切な問題発生などにも、単に経済活動上のログフェーズといわれるエネルギーの上昇期によってさえも隠しきれない不調和な事項が多く発生しています。
数秒で世界の隅々まで届けられる世界世論の形成によって軍事的なフロンティアにも展望が持てず、強大な軍事力も弱小者の技術的応力の拡大から、覇権という軸性上の平衡関係はそれなりのバランスを保ち始めています。これに対して経済的なフロンティアも、市場という競合基盤という軸性上に国際企業的な組織から国家そのものといっても良い組織へ競合主体が移行するにつれて、市場経済そのものに対する適切な自律機能は働く機会を失い、アメリカやEUを始めG8など特定国家群の協働によって辛うじて市場機能を維持しているように思われます。
フロンティアなき有限の資源と地球環境に前途を阻まれ、力の格差の大きく弱い競合者を正面突破する経済政策や政治的軍事的圧迫には、比較的小さな代価で大きな効果を生むテロリズムによって対応する風土が世界の各方面に蔓延し、覇権安定論に見られる極性による統治という従来の方式は、市民の推理力の向上の前に放棄せざるを得なくなっています。
この傾向は徐々に強まり、様々な国家国民の消費行動にも見られるようになり、モジュール化され規格化された商品の大量生産、そして大量消費という大型店の展開に、その規則性から隙間を狙うニッチ(ものを適所に置くような生態的地位)業態が展開するようになり、ニッチ業態が拡大したときはニッチではなくなるという、エンドレスな展開が、大型店の方位を見失いを起こさせ混迷の度を加えるように思われます。 この傾向の主な原因は、我々自身の心の奥底に眠っていたもの、「自らを客観視する意識の目覚め」にあったのではないかと思います。新しい時代の波動がそれを呼び起こして、それが自らを自分として改めて意識し始め、「これが自分だ」という意識に目覚め始めたように感じるのであります。彼らはいまこそ自分に見合った新しい道を模索しているのではないかと思われます。
このような自覚が、我々自身の意識段階を嫌でも認知せざるを得なくしてしまい、これが自らを取り巻く環境を見なおしつつ推理力を高め、単なる一元的な軸性による判断を忌避するようになり、有機的な判断の必要性を理解し始めているように見受けられます。 しかし未だ、これぞという適確に判断できる現実的かつ論理的確信に至るものは少なく、これが今日、現在に存在する我々の姿のような気がいたします。人間に対する教えを説いた釈迦牟尼(kyamuni釈迦族の聖者の意)は、この状態を「無明の状態」といっているのではないかと思います。
しかしながら個々人の自分ならいざ知らず、地球人類社会を構成している国家の、その国民としての立場に立ち返って、この現状を見るとき、このままで良いのかと思ってしまうのが普通の人だろうと思います。 国家として国家群として、人類として何かをなすべき時が来たと思うのが自然ではないでしょうか。
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