地球社会における新文明への耕作活動へ

日本の国際貢献 Japan's international contribution

国際的な社会的ジレンマを超えて

2.国際的な無明の拡大

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 この「無明」(癡(ち)という)に、貪(とん)と瞋(しん)を加えて仏教では三大煩悩といっています。 そして煩悩は我々を苦しめ悩まし間違った判断に過ちに導く不善の心のことを言うとしています。
古くから言われているとおり、「貪」とは物的、情的な社会的反応であり、貪欲という貪りの心であります。肉体を維持することが生きる凡てのことという動物的反応が判断の主流を決めるとき、人間は人間の凡てのものが充足することを忘れ、生き残りを賭けて闘争し覇者として君臨しようとした永い歴史をもっています。
「瞋」は人間にある怒りの心を言い、我々の心を汚し毒するものであって、怒りの連鎖は多くの因果関係を重ねて解決の目途が付かないのは当然のことであります。 復讐とか仇討ちなど古くから制度的な規制の対象であったものですが、いまも尚、復讐の念や報復などという個人的なものが今や国際的な大きな課題として我々の眼前に突きつけられているものの一つであります。

これに対して人間の知的な問題である「癡」は人間の無知をいい、無明(むみよう)と呼んでおり、宇宙の真理を知らないという知的な心の汚れであり、これが根源的な原因となって貪と瞋という他の煩悩が生じているとみているのであります。

 仏教の多くの経典ではこのような煩悩を詳細に分析していますが、ここにいう煩悩を消滅することによって人間の心の平静さ、すなわち「寂静」を得、解脱と菩提と涅槃(ねはん)を獲得する道を説いているのが仏教だと言われています。 確かに煩悩に対し六波羅蜜を実践しこの迷の中の此岸から悟の彼岸に到達する道が重要であり、正覚を開く人たちが多く社会を占めるようになることは何よりも嬉しいことですが、迷いの此岸の状態が、個人的なレベルではなく、国家間の問題になって各所に表現され、世界的、国際的な混迷の主因となっている状態が、否めないのではないかという疑念が何よりも大きな地球人類社会的な問題であると思います。

 このような人間の物的、情的な社会的反応の主因となっている人間の心に、平安をもたらし寂静という平静な精神生活に浸っている時間が重要な、人類として唯一の機会と言ってよい、この重要な時期に、これに反して「貪瞋痴」の無知を活用して国益を訴求するような国際的政策が尚、重要な政策として今までと同様に使われていることが、国民のためにという名分を利する国家という組織的存在の一つの大きな問題であります。
 そうは言うものの、人間が物的、或いは情緒的な課題に手を取られている時代をへて、精神体の整備に入ったころは、事象をパターン化したり、記号や象徴化した事物を使ったりして、少しだけ包括的な理念を構築しても、詳細な諸元による骨格システムをつくりだす推理力は不足したままで、総論のままその実現に努力を重ねる以外に方法は見つからず、多くの課題を歴史上に残したことも、事実として認知されるようになりました。

一方では、この手法は物的な、あるいは情緒的な貢献を果たす上で歴史的な悲劇を残しつつも、人間のために科学的、技術的思索の体系をつくりだし、引いては思考のための重要な余暇を造りだしました。そして、これらの体系はここ数世紀のあいだに大きく開花して、人類社会には傷となった大きな格差を残しながらも、人間のどうしても通過しなければならない適切な進化のための思考体系と貴重な時間的余裕の提供とによって大きな貢献を果たしたのも、重要な貢献の成果であります。
 
しかしながら時代は、我々が気付かぬままに大きな変貌を遂げつつあります。 世界は、各方面のイデオロギー論議に支えられて発展した抽象的な理想主義への献身の時代を過ぎ去って、今や進化した現実を基盤として更に前進するための新しい理念が展開を続け、更にこれが表象化されるためにプロトコル化され整序された規約に従って現象化する時代に動きつつあります。

そしてその新しい理念が国際社会の中では未だ無明の中にあるままであり、無明が発している貪瞋痴という三つの主題に侵された政策が国際社会の主流にある限り、深い閉塞感が覆っている世界情勢に対しこれを適切に識別し、有効な対策を打ち出すことは困難であり、無明という状態からの脱出は不可能といっても間違いではないように思います。


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