1.はじめに|国家特性の分析
世界の国家群がもつ課題の位置つけ
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国際世界における政治、経済、社会的な混迷は、主導国家やその首脳の絶え間ない試行錯誤の努力の傾注にも係わらず、近未来像も描けず況や道標を示す所までには至っていません。当然のことながら、いよいよ物的な有限が現実のものとして眼前に突きつけられて、如何に日常生活に追われている我々であっても、最早目をつむって看過できる状態ではありません。まさに人類の叡智が試されるときを迎えています。この多くの困窮する事態が、世界の隅々にまでに目の前に突きつけられて「人類の未来像」について試みられた多くの「試論」たとえばヴィリー・ブラント氏による「南と北」によって訴えられている人類生存のための頂上会議の提案が、今こそ眼前に必須のことになっています。
多くのご意見が、あるいは先賢の働きが奨められて討議の機会を得たとして、討議されるべき観察情報や、データが描き出す現実の姿は、対策立案に際して充分なものかどうかと考えたとき、多少の不安を感じていたことを覚えています。そんな不安を持ちながら、時代の利器を活用して世界中の多くの国家データを多くの方々の協力を得つつ収集の努力を重ねてみた結果、やはりその不安は否めない事実でありました。収集できたデータは、国益を中心にして対策を図るために直接に必要な領域の情報にとどまり、国政の方向付けのための調査情報に終始して、国益を再配分し分担する方位に向けられているのも当然です。
一方では、米国商務省の Safe Harbor Program や欧州連合データ保護指令(Data Protection Directive)あるいは経済協力開発機構(OECD)公正な情報処理(Fair Information Practices)やアジア・太平洋経済協力会議(APEC forum)などでプライバシーに関する規制的なフレームワークが制定され、適用されるデータ保護に関する国内法などの統一的な整備がいま改めて問い直されているようであります。
人間の尊厳に関わるプライバシーが尊重される一方で、地球人類社会の持続的存立をかけた戦い即ち地球の集団益と国家との間に生まれる社会的ジレンマの超克の問題が浮き彫りになってくるために、これら情報も公示が困難になるかもしれません。国益をもって国民に報いる意図や意義だけではなく、地球益こそ国益の原点であることを理解することから始めるという、地球人類社会の構築のために必要な情報さえも、国家や地方組織のもつ情報収集の上も、超えにくい大きな障壁がありことを知ったのであります。
過去数世紀にわたる宗教的諸課題に対処するために、科学的指向性を強めた社会的な改革の指針は大きな便益を、人間の余暇時間として国際社会に提供し、人間の生命体に対する特性を生かしつつ仄かに見えてきた未来像という灯火に期待を寄せているそのときに、物的な有限という、今まで経験したことがない(?)与件に人類として対応しなければならないことが周知されるに至ったのであります。
世界の国々の平均寿命が33歳から84歳(2005年現在)まで、大きくふれている実態の主因から連鎖する因果関係を適正に理解し、物的な有限に対処する試みるべきシナリオとその道筋とを、ぶれの少なくて効果的かつ実現可能な目標像としてデザインし、達成するための評価手段を検討して、人間とその考える集団の前に提示することから始めなくてはなりません。
この頂上会議(通常行われているG7とかG8とかいうサミット会議ではなく、もっとも実質的な影響力の高い直覚的な意識の方々の会議)で討議されるべき必須のことは、先ずその実態を調査確認の上で明確に認識できることであります。
しかし世界に政策的に歪みをもたないで正当に認知されている国家群の客観公平な社会的な実態を知ることは、現状では至難の業と言わねばなりませんが、そこに生まれて生活しあらゆる活動を生み出している国民の活動意志とその背後にある思いの働きを捉えつつ理解することは更に困難なことであります。
その表面心理の背景にある本人にさえも理解されていない深層心理の働きが、どのような方向を向いており、それがどのような高度な知的背景の上で発現しているものか、物的な因果関係が発現する領域における問題か、因果関係を昇華する領域における課題かを知る手段さえも不十分であります。そして国際的交流に関する討議の間に、垣間見える諸国間のネゴシエーターを通して、国民の認識や要望を真なりと受け取る他ないのであります。
しかし現代地球上にすむ人間を中心として、総合的な地球生命体を構成する多様な生命単位を客観的に観察し、認識してみる段階では、特に生命単位の集団がもつ統計的な分散として観察するときは、政権のもつ指導力や経済的な位置付けなどを背景に、実施されている民主的決定の手続きには、多くの隠された課題が存在することに注目せざるをえません。そしてそのような現実も、いま我々が一体として生きる地球生命体の未来をかけた剣が峰にある判断の一部であることも厳粛な事実であります。
このような現実を冷徹に識別し、地球人類が自ら招いた太陽系宇宙における物的有限という新しい与件に対する人類という集団的な対応能力を再評価して、国家というよりは、視線の行き届く地域社会や民族的社会の実情をそこに住む人間として少しでも多く理解することが極めて重要になってくるのであります。