対立創造と融合創造との異同について
一定の秩序ある規則に従って階層的に細分化され,且つ領域的にデジタル化された構成因子は、その相対的位置づけが明確であるが故に、別の事象や対象に対する融合接点を相対的に比較しやすく,自分の判断を可能にするための努力によって、適正な理解が容易になる可能性があります。
それは万人の相互関係に適用される認識限定の法則によって、認識の異なる国家や住民の間にも,存在する認識の限定があるときは、十分な意思疎通が出来ないばかりか,この誤解によって様々な紛争や戦争が勃発したり,政事や、行政と住民など双方が対立する重要な事態に発展したり、時としては相互の感情の拗れる問題にまで展開したり、正義などの誤解にまで発展してしまう可能性が高いように思います。
長い人類史の中でも、原子の意識(いわゆる物性の特徴)による長大な期間にわたる支配や覇権による抑圧の時代には、認識の限定ばかりではなく、これに擬した理由によって支配を完遂した卑怯な史的事実も多いように思われます。
この原子の意識による支配の歴史の中にも、支配するための名分を構築するために対立創造という思想が使い込まれたり、対立支配を容易にするための科学技術が多く発明され多くの時代に見合った貢献を積み重ねてきました。これが現代の多くの科学文明を生み出す大いなる原動力となり、大いなる貢献を遂げたことも事実であります。
しかしこの対立創造に当たっては、事象や勝利のための分析という細分化が,常に実施され、その成果を充分に位置付け、位置付けが理解できてその特性を生かすべく多様に組み合わせて,いわば融合して望ましい成果を創り出していることも事実であります。これが対立創造と言われるものの実態であります。どうも対立創造と融合創造とは創造に取り組むときの、動機つけというか意志の持ち方の相違だけのように思われます。
実際、計画的に一定の約束事のもとに作られた、階層別領域別の思考構造上の因子を,つまり位置づけが明確で因果関係がよく理解されている状態で、融合接点を訴求してみると融合創造は常に実現しやすく,自らの意図に貢献することがよく解ります。
どうも人間は対立している時よりも,融合しようとしたほうが,容易に目的に到達するように出来ているように思います。融合を重ねていると、とんでもない創造の結果が待っていることがあります。それが人間に与えられた得がたい本質の一つかもしれません。